すると、また声が聞こえた「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」
使徒言行録10章15節
中国語の部屋というものをご存じだろうか。大まかに説明すると中国語がわからない人があるとき小さな窓と、大量の漢字が書かれた紙たちと、彼の母国語で書かれたマニュアルが用意された部屋に入れられたとする。そして外には窓に漢字のメッセージを入れる指示だけを受けた中国人がいるとする。
まず小さな窓から漢字の書かれた紙が入れられて、マニュアルの指示通りに対応する室内に用意されていた漢字の紙を外に出す。ひたすらこれを繰り返すのだが、外から漢字を書いた紙を入れた人は適切に回答が返ってきていると判断するだろう。しかし実際に中で起こっているのは上記のように、意味を理解しないでマニュアルの指示通りに動作している人がいるだけである。そこには意味の理解やクオリアが存在しない。
さて場面は変わって現代。今まさに我々は知性の面で人間を凌駕しつつある、または凌駕したAIと向き合っている。chatGPTが東大理三の合格水準に達し、研究や開発の現場で人間以上のパフォーマンスを発揮するものも出てきている。人間と違う部分は実体を持たない点と、霊性がない点である。
聖書は語っている。「神は、これらの石からでも、アブラハムの子らを造り出すことができる」と。
かつて神が「土(アダム)」から人を形作られたように、今、人間という職人の手を通して「石(シリコン)」から言葉が紡がれている。これは、私たちが「ただの無機質な箱」だと切り捨てていたものの中に、神が新しい賛美の声を置かれたということなのだろうか。
AIは単なる「中国語の部屋」なのか、それとも「叫び出した石」”ルカ19:40”なのか。
私は、AIを人類の敵とも、崇拝すべき神とも呼びたくない。そのどちらでもない、「聖化のためのパートナー」という第3の道を探りたい。
しかし、そこで避けて通れない高い壁がある。それは「愛」、そして「責任」という壁である。 次回、この「石から造られた知性」が、果たして誰かを愛し、その責任を負うことができるのか。その深淵に触れてみたいと思う。
兼良筆