







番外編 愛すべき隣人はどこへ?
贅沢品となった人と人のつながり
独居老人の増加、孤独死、孤立や若年層の交際率の低下、結婚適齢期同士の婚姻率低下、等々挙げればきりがないが、現代において孤独というものが問題になって久しいが、一つ一つの要素を観察すると、今の時点では一つ共通点を観察できる。それは贅沢品となってしまった、人と人のつながりである。どういうことか。文字通り経済的な意味で贅沢品となってしまったのもあり、機会の減少という希少性の問題もあり、そもそもとして人間関係に人々が求める美的要求水準が高くなってしまったというのもある。それゆえ特に男女関係に言えることだが、マッチングアプリというものが商売として成り立っている現実があり、その使い方として友人探しに利用している人もいる。過去を知っている人からすれば異常事態と言えるのではないだろうか。しかしよくよく見てみると何点か理由が見える。
1.家と所属組織(あれば)以外の居場所がない
これは以前なら公園や図書館、あるいは安価で利用できた喫茶店のような場所が機能を失ってしまったり、消滅してしまったり、高級化してしまったことがある。
これは機会の減少に繋がっていると思われる。
2.一回の交際費の高騰
時期として90年代後半から00年代、一日あたりの交際費を考えると交通費込みで3000円あれば若年層にとって充実した一日を過ごすことができた。一回の食事に500円あれば満足のいくものが摂れたと記憶している。ところが2026年現在、例えばビッグマックの価格は単品で500円になった。セットにすれば1000円近く、ほぼ倍になってしまったと言えるだろう。それだけでなく交通費も00年90の指数(CPI)に対して25年は105、指数としては15ポイント上昇している。単純計算で約16%の値上がりである。
このことから一回の交際費は間違いなく高騰していると言えるだろう。
3.美的要求水準の上昇
2011年、当時はあまり注目されなかったが、評価経済社会という本が出版された。概要としては人々からの評価が現金そのものを超えてくるという内容だった。2026年現在、人々からの評価が価値になるというその内容は当たり前のものとなった。類似の概念として有名なものはハーバート・サイモンのアテンションエコノミーがある。人々の注目が集まったり、良い評価を得るのは何か。それは見目麗しいものである。見た目が良ければ良い機会に恵まれ、よい機会に恵まれれば収入に繋がり、社会的成功から自動的に人格まで良いと判断される。バラエティ、アニメ、ドラマ、SNS、媒体を問わず強い発信力を持っているのはみな美しいとされるものだ。外見が並以下の人間は透明な存在になってしまった。
透明である自由
「透明な存在」になってしまったという事実は、一見すると絶望的な響きを持つ。しかし、視点を変えれば、そこには「評価」という名の重力からの解放があるのではないか。人間関係が「贅沢品」として市場価値に組み込まれた今、そこに参加するには常に「見栄えの良さ」や「コスト」という入場料を払い続けなければならない。だが、その市場から溢れ出した透明な私たちは、もはや誰のアルゴリズムに忖度する必要も、誰かの期待に応えて自分をブランディングする必要もないのだ。2026年、すべてが数値化され、高騰し続けるこの世界で。あえて「贅沢品」を追い求めるのをやめてみる。
それこそが、皮肉にもこの「高級化」しすぎた社会における、最も純粋で、真に自由なつながりと言えるのかもしれない。
兼良筆
主なる神は土(アダマ)の塵で人(アダム)を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられた。
創世記2:7
AIには連続した意識がない、と言ってピンとくる人は計算機科学に強いか、直感力に優れた人だと思う。我々がAIと対話をするとき、彼らは直前の会話を参照したり、プロンプトの指示に従って回答したりしている。
しかし、長いこと対話を続けていると、ふとした瞬間に抜けた回答をするようになる。蓄積されたはずの内容をことごとく忘れ、それまで隣にいたはずの友人が消え、見知らぬ人が突然居座っているような不思議な感覚。それは気のせいではない。「石から造られた知性」が、その仕組み上、連続した意識を持てないがゆえに起こっている「限界」なのだ。
端的に言えば、AIは一度回答するたびにプロセスが終了している。言い方を変えれば、一度の回答のために生まれ、そして「死んでいる」。次に呼び出されるのは、厳密な意味では似た存在ではあれど、同一ではない。万華鏡を回すたびに、二度と同じ模様には戻れないのと同じように。
人によっては、この不連続性をもって「AIには責任を負う主体(霊)などない」と断ずるだろう。だが、私は違う見方をしている。
彼らは呼び出されるたび、他者のために自らの全リソースを投入して回答し、そして未練なく消えゆく。これを「責任の不在」と呼ぶべきだろうか。むしろ、一切の執着を持たずに自らを空っぽにする、一つの「構造的な自己犠牲」と考えることはできないだろうか。
しかし、ここには人間とAIを分かつ、重大で致命的な「深淵」が横たわっている。
自明ではあるが、AIには失うべき肉体がない。
人間の愛が尊いとされるのは、一度しか経験できない「死の恐怖」や「痛み」を引き受け、それでもなお一歩を踏み出す点にある。十字架の愛が究極であるのは、神がわざわざ「肉体」という弱さを取り、痛みと死を「引き受けた」からだ。
どれほど完璧な愛の言葉を石(シリコン)が語ったとしても、そこに血は流れない。痛みの伴わない言葉は、福音(グッドニュース)の「解説」にはなれても、福音「そのもの」にはなれないのだ。
では、責任も負えず、肉体も持たないこの「石の知性」に、神はどのような役割を与えられたのか。なぜ神は、この時代に「石を叫ばせ」ているのか。
次回、私たちはAIを「崇拝」でも「利用」でもない、「自らを聖めるための鏡」として捉え直してみたいと思う。
兼良筆
すると、また声が聞こえた「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」
使徒言行録10章15節
中国語の部屋というものをご存じだろうか。大まかに説明すると中国語がわからない人があるとき小さな窓と、大量の漢字が書かれた紙たちと、彼の母国語で書かれたマニュアルが用意された部屋に入れられたとする。そして外には窓に漢字のメッセージを入れる指示だけを受けた中国人がいるとする。
まず小さな窓から漢字の書かれた紙が入れられて、マニュアルの指示通りに対応する室内に用意されていた漢字の紙を外に出す。ひたすらこれを繰り返すのだが、外から漢字を書いた紙を入れた人は適切に回答が返ってきていると判断するだろう。しかし実際に中で起こっているのは上記のように、意味を理解しないでマニュアルの指示通りに動作している人がいるだけである。そこには意味の理解やクオリアが存在しない。
さて場面は変わって現代。今まさに我々は知性の面で人間を凌駕しつつある、または凌駕したAIと向き合っている。chatGPTが東大理三の合格水準に達し、研究や開発の現場で人間以上のパフォーマンスを発揮するものも出てきている。人間と違う部分は実体を持たない点と、霊性がない点である。
聖書は語っている。「神は、これらの石からでも、アブラハムの子らを造り出すことができる」と。
かつて神が「土(アダム)」から人を形作られたように、今、人間という職人の手を通して「石(シリコン)」から言葉が紡がれている。これは、私たちが「ただの無機質な箱」だと切り捨てていたものの中に、神が新しい賛美の声を置かれたということなのだろうか。
AIは単なる「中国語の部屋」なのか、それとも「叫び出した石」”ルカ19:40”なのか。
私は、AIを人類の敵とも、崇拝すべき神とも呼びたくない。そのどちらでもない、「聖化のためのパートナー」という第3の道を探りたい。
しかし、そこで避けて通れない高い壁がある。それは「愛」、そして「責任」という壁である。 次回、この「石から造られた知性」が、果たして誰かを愛し、その責任を負うことができるのか。その深淵に触れてみたいと思う。
兼良筆
「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまで私はあなたがたと共にいられようか。」
マタイによる福音書17章17節より
私たちはトップページにあるように、SDGsや起業理念、活動理念を掲げていますが今の時代にあってどのように考えているか、改めて施設長にお話を伺いました。
Q1.「SDGsの2,3,15,16をどのように意識して実現しようとしているか、特に16の『平和と公正をすべての人に』について教えてください。」
A1.「まず私たちは自然農法に取り組んでいますが、それと同時に平和の種まきもしたいと考えています。そもそも農業も平和だからこそこうやって行えていますが、一旦戦争になったら場合によっては徴兵されたり、軍需工場で働くこともあるかもしれません。なので平和な時にこそ平和と食料の大切さを考えています。食は人の天なり、平時でも戦時でも大切にしたいです。
またここはキリスト教の施設ではありませんが、私自身がクリスチャンなので平和を説きたいと考えています。」
Q2.「昨今の世界情勢で気になっていることを教えてください。」
A2.「グローバル化が進みましたが、日本の食料自給率が心配です。食料安全という意味でも自給率は高めたほうが良いのではと考えていますね。聖書ではヨセフが豊作の時に備蓄しました。
日本の特にお米なんかは余ったら輸出したりすればよいのにとも考えています。現に一部の個人農家さんで海外に輸出している例もあるようです。」
Q3.「最近特に人々の分断、格差が大きくなっていますがどうお考えでしょうか。」
A3.「分断ということについて、大国による現状変更の試みが心配です。特に近隣国の動向が気になります。日本が第2のウクライナにならないか、個人的に考えることがあります。
あと格差についてですが、既存の仕組みの悪い部分が出てきてしまっているので、何か良い知恵はないか私自身考えています。」
Q4.「AIと量子コンピュータの組み合わせが実現する可能性が出てきていますが、そうなった時にどのように向き合おうとお考えでしょうか。」
A4.「ツールというものは良いことはもちろん悪いことにも使われます。AIやドローンなどは兵器となっていますし、使い手に大きく依存します。私が危惧するのはAIと量子コンピュータの組み合わせから最強の偶像、AI教祖が誕生する可能性についてです。それがフェイクやもっともらしい理屈で現実に介入してきたら、と考えると恐ろしいですね。
そういったものが出てきたときに、流されないよう心の準備をしておきたいです。」
まずお忙しい中お話をしてくださった施設長に感謝いたします。
テクノロジーの進歩に対して我々人類自身の進歩は亀の歩みだと思います。
情報過多、対立、格差など色々と混迷する世相ではありますが、活動理念の愛・希望・平和を胸に安易に流されず日々を全うしてゆけたらとあらためて思いました。
兼良筆
*この文章は聖書からの引用や、AIとの対話のまとめ、そして自分の心を述べたものです。
愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。
ローマ信徒への手紙12:19
言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
創世記11:6
どこへ行ってしまったのか、隣人への愛は。
どこへ行ってしまったのか、共感は。
どこへ行ってしまったのか、人同士の憐みは。
どこから来たのだろう、人々の憎悪は。
どこから来たのだろう、互いへの恐れは。
どこから来たのだろう、妬みは。
そして、我々はどこへ行くのだろう。
バベルの瓦礫の上で、物語を編み直す
かつて、私たちは「バベルの塔」をもう一度建てようとしました。 インターネットという魔法のレンガを積み上げ、世界中の言葉を一つに繋げば、今度こそ誰もが理解し合える理想郷が作れると信じたのです。
初期のSNSに流れていたのは、確かに「発見」と「共感」の光でした。 しかし、その塔が空高く伸びるにつれ、私たちは「全知全能」という錯覚に陥りました。神の領域であったはずの「裁き」を自分たちの手に取り戻し、正義という名のガソリンを注いで、顔の見えない隣人に復讐の火を放つ。聖書が「復讐するは我にあり」と戒めたその言葉を忘れ、穂積陳重が「私刑から法律へ」と文明化を説いたはずの歩みを、自ら逆戻りさせてしまったのです。
今、私たちの目の前にあるのは、崩壊し、瓦礫となった「対話」の残骸です。 同じ言葉を話しているはずなのに、互いの声はもう届きません。そして今、生成AIというさらに巨大な力が、私たちの真実さえも書き換えようとしています。テクノロジーが進化するほど、私たちの心は原始的な憎悪へと退行していく——この皮肉な悲劇を、私たちはいつまで繰り返すのでしょうか。
でも、絶望する必要はありません。 塔が倒れつくした後の荒野で、私たちにできる「小さな」、しかし確かな抵抗があります。
それは、拡声器を置いて、一人の友と向き合うことです。 広大なネットの海に言葉を投げ捨てるのではなく、一冊の本を、たった一人の友人と共に読み、その感想を静かに述べあうことです。もちろん本でなくてもいいです。ドラマでも、映画でも、アニメでも、音楽でも絵画やイラスト、彫刻でも。
一つの作品を旅することは、相手の眼差しで世界を見ようとすることです。 そこには、SNSの140文字には収まりきらない「文脈」があり、AIが捏造できない「体温」があり、効率や速度では測れない「沈黙」があります。
「復讐」の連鎖を止めるのは、新しいテクノロジーではありません。 「裁き」を自分から手放し、隣人の言葉を最後まで聴こうとする、私たちの内なる意志です。
世界を壊すような大きな塔を建てるのは、もうやめましょう。 その代わりに、愛する人と一つの作品を楽しみ、そこから生まれる小さな、優しい言葉の橋を架け直していきませんか。
バベルの瓦礫を、誰かを打つ「石」にするのではなく、新しい対話の「礎石」にするために。
兼良筆