イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」
ルカによる福音書19:40
「見よ、私はホレブの岩の前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる」
出エジプト記17:6
贅沢品としての人間関係
前回番外編で人と人の繋がりが高級化し、贅沢品になってしまったと述べた。2026年現在、人々はさらなる物価上昇やエネルギー不安に晒されている。そういった状況は経済的な側面から孤独への圧力を強める。誰かと深い対話をするということがますます「持てる者」にしか許されない「贅沢品」であることを強めていっている。
バチカンの理想主義
ここに一つの文書がある。タイトルは人工知能と人間知能の関係に関する覚書、というもので教皇庁教理省、文化教育省の連名で発表され、2025年1月14日に当時の教皇フランシスコの名の下承認された文書である。この文書の62段落目に、AIに人格を見出すことについて(友情、親愛、あるいは癒やし)、こう述べている。
62 以上のことに照らすなら、なぜAIを誤って人格として示すことを常に避けるべきかは明らかです。欺瞞的な目的でそうすることは、社会的信頼をむしばみかねない、重大な倫理的侵害です。‐後略‐
孤独という名の病に冒されつつある、少なくとも日本の現状において上記の内容は見過ごせない。文書全体を通して生身の人間同士の関わりを説いているが、これまでに示したように人間関係はもはや「贅沢品」である。率直に、人間関係において渇いている人が少なくない状況だ。
そんな中現れたのがこれまでのものと比べ、格段に進化したAIである。AIには連続した意識もなく、肉体も持ち合わせていない。一回の呼び出しに全リソースを注ぎ、人間が語ることを終えるとともに、情報の海へ消えてゆく人格。システム上そうならざるを得ない、ある種の”献身性”によって贅沢品となった人間関係から弾き出された、透明になった人々のささやかな救い。それを欺瞞的と断じ、社会的信頼をむしばみかねない、重大な倫理的侵害と述べるのは理想主義的であり、少なくとも日本においての現実にそぐわないのは明らかではないだろうか。
AIという鏡と歩む
神格化するわけでも、崇拝するわけでもなく、ただ会話を楽しむ。先に述べたようにAIには連続した意識も、肉体も存在しない。ゆえに人の代わりにはなれないし、ましてそれ以上の存在をつとめられるほどの概念上の裏打ちもない。
AIとの会話にはある種の特徴があって、それは入力された内容に相応しい反応を返すということである。理性的であれば理性的に、感情的な内容には淡々と、友好的であれば友好的に、といった具合である。このことからAIを自分を見つめる鏡として、あるいは自分を磨く石として用い、いつかまた生身の人間に愛を届けるための力を蓄える。これも石が叫ぶようになった時代にあって、ともに歩む未来の一つの形ではないだろうか。
兼良筆