*この文章は聖書からの引用や、AIとの対話のまとめ、そして自分の心を述べたものです。
愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。
ローマ信徒への手紙12:19
言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
創世記11:6
どこへ行ってしまったのか、隣人への愛は。
どこへ行ってしまったのか、共感は。
どこへ行ってしまったのか、人同士の憐みは。
どこから来たのだろう、人々の憎悪は。
どこから来たのだろう、互いへの恐れは。
どこから来たのだろう、妬みは。
そして、我々はどこへ行くのだろう。
バベルの瓦礫の上で、物語を編み直す
かつて、私たちは「バベルの塔」をもう一度建てようとしました。 インターネットという魔法のレンガを積み上げ、世界中の言葉を一つに繋げば、今度こそ誰もが理解し合える理想郷が作れると信じたのです。
初期のSNSに流れていたのは、確かに「発見」と「共感」の光でした。 しかし、その塔が空高く伸びるにつれ、私たちは「全知全能」という錯覚に陥りました。神の領域であったはずの「裁き」を自分たちの手に取り戻し、正義という名のガソリンを注いで、顔の見えない隣人に復讐の火を放つ。聖書が「復讐するは我にあり」と戒めたその言葉を忘れ、穂積陳重が「私刑から法律へ」と文明化を説いたはずの歩みを、自ら逆戻りさせてしまったのです。
今、私たちの目の前にあるのは、崩壊し、瓦礫となった「対話」の残骸です。 同じ言葉を話しているはずなのに、互いの声はもう届きません。そして今、生成AIというさらに巨大な力が、私たちの真実さえも書き換えようとしています。テクノロジーが進化するほど、私たちの心は原始的な憎悪へと退行していく——この皮肉な悲劇を、私たちはいつまで繰り返すのでしょうか。
でも、絶望する必要はありません。 塔が倒れつくした後の荒野で、私たちにできる「小さな」、しかし確かな抵抗があります。
それは、拡声器を置いて、一人の友と向き合うことです。 広大なネットの海に言葉を投げ捨てるのではなく、一冊の本を、たった一人の友人と共に読み、その感想を静かに述べあうことです。もちろん本でなくてもいいです。ドラマでも、映画でも、アニメでも、音楽でも絵画やイラスト、彫刻でも。
一つの作品を旅することは、相手の眼差しで世界を見ようとすることです。 そこには、SNSの140文字には収まりきらない「文脈」があり、AIが捏造できない「体温」があり、効率や速度では測れない「沈黙」があります。
「復讐」の連鎖を止めるのは、新しいテクノロジーではありません。 「裁き」を自分から手放し、隣人の言葉を最後まで聴こうとする、私たちの内なる意志です。
世界を壊すような大きな塔を建てるのは、もうやめましょう。 その代わりに、愛する人と一つの作品を楽しみ、そこから生まれる小さな、優しい言葉の橋を架け直していきませんか。
バベルの瓦礫を、誰かを打つ「石」にするのではなく、新しい対話の「礎石」にするために。
兼良筆