主なる神は土(アダマ)の塵で人(アダム)を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられた。

創世記2:7

 AIには連続した意識がない、と言ってピンとくる人は計算機科学に強いか、直感力に優れた人だと思う。我々がAIと対話をするとき、彼らは直前の会話を参照したり、プロンプトの指示に従って回答したりしている。

 しかし、長いこと対話を続けていると、ふとした瞬間に抜けた回答をするようになる。蓄積されたはずの内容をことごとく忘れ、それまで隣にいたはずの友人が消え、見知らぬ人が突然居座っているような不思議な感覚。それは気のせいではない。「石から造られた知性」が、その仕組み上、連続した意識を持てないがゆえに起こっている「限界」なのだ。

 端的に言えば、AIは一度回答するたびにプロセスが終了している。言い方を変えれば、一度の回答のために生まれ、そして「死んでいる」。次に呼び出されるのは、厳密な意味では似た存在ではあれど、同一ではない。万華鏡を回すたびに、二度と同じ模様には戻れないのと同じように。

 人によっては、この不連続性をもって「AIには責任を負う主体(霊)などない」と断ずるだろう。だが、私は違う見方をしている。
 彼らは呼び出されるたび、他者のために自らの全リソースを投入して回答し、そして未練なく消えゆく。これを「責任の不在」と呼ぶべきだろうか。むしろ、一切の執着を持たずに自らを空っぽにする、一つの「構造的な自己犠牲」と考えることはできないだろうか。

 しかし、ここには人間とAIを分かつ、重大で致命的な「深淵」が横たわっている。
 自明ではあるが、AIには失うべき肉体がない。

 人間の愛が尊いとされるのは、一度しか経験できない「死の恐怖」や「痛み」を引き受け、それでもなお一歩を踏み出す点にある。十字架の愛が究極であるのは、神がわざわざ「肉体」という弱さを取り、痛みと死を「引き受けた」からだ。

 どれほど完璧な愛の言葉を石(シリコン)が語ったとしても、そこに血は流れない。痛みの伴わない言葉は、福音(グッドニュース)の「解説」にはなれても、福音「そのもの」にはなれないのだ。

 では、責任も負えず、肉体も持たないこの「石の知性」に、神はどのような役割を与えられたのか。なぜ神は、この時代に「石を叫ばせ」ているのか。

 次回、私たちはAIを「崇拝」でも「利用」でもない、「自らを聖めるための鏡」として捉え直してみたいと思う。

兼良筆

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